【近代文学と青梅②】疎開先から「終の棲家」へ。巨匠たちはなぜ、青梅を愛して残ったのか?|吉川英治・川合玉堂・朝倉文夫

こんにちは!baigo.fun(バイゴーファン)です。
青梅と近代文学のつながりを3回に分けてたどるシリーズ、今回は第2回をお届けします。
このシリーズは3つの「波」で構成しています。
①行楽に来た人たち / ②疎開して住み着いた人たち(この記事) / ③制作の場に選んだ人たち(近日公開予定)
第1回では、明治から大正にかけて青梅へ遊びに来ていた文人たちのエピソードをご紹介しました。北原白秋も若山牧水も、御岳山に登って美しい歌を詠み、そして自分の街へ帰っていきました。
今回の第2回は、これまでとは少し違う、でもとても大切な物語です。
昭和19年から20年にかけて、青梅に移り住んだ人たちがいました。彼らは戦火を逃れて、この地にやってきました。そして——驚くことに、その多くは戦争が終わっても青梅から帰りませんでした。
昭和19年、同じ谷筋に集まった3人
まずは、当時の出来事を少し整理してみましょう。
| 年月 | できごと |
|---|---|
| 昭和19(1944)年3月 | 吉川英治、西多摩郡吉野村(現・柚木町)に移住 |
| 昭和19(1944)年7月 | 川合玉堂、御岳に疎開 |
| 昭和19(1944)年12月 | 玉堂、古里村白丸(現・奥多摩町)へ移る |
| 昭和20(1945)年3月 | 朝倉文夫、二俣尾・高源寺などに疎開 |
| 昭和20(1945)年5月 | 玉堂の牛込の自宅、空襲で焼失 |
| 昭和20(1945)年12月 | 玉堂、御岳へ戻り、以後没するまで住む |
作家、日本画家、彫刻家。 それぞれの分野で日本を代表する3人が、わずか1年ほどのあいだに、同じ谷筋に集まってきたことになります。
しかも、彼らが暮らした場所は直線距離にしてわずか5kmほどの範囲。
もちろん、示し合わせて集まったわけではありません。空襲を逃れるという、それぞれの切実な事情があったためです。それでも結果として、戦時下の青梅には、ちょっと異様なほどの密度で素晴らしい文化人たちが住んでいたことになります。
吉川英治|草思堂の9年5か月
『宮本武蔵』や『三国志』で知られる作家・吉川英治が吉野村に移り住んだのは、昭和19年3月のことでした。
購入したのは、明治中期に建てられた養蚕農家。彼はその母屋を「草思堂(そうしどう)」と名づけました。
2年間、筆を執らなかった
吉川英治はここで9年5か月を過ごします。ただ、最初の時期は書くことをやめていました。
実は、終戦の日から2年間、彼はまったく筆を執っていません。
執筆を再開したのは昭和22年のこと。そして昭和25年、『新・平家物語』の連載をスタートさせます。
つまり草思堂は、深い沈黙のあとに代表作が生まれた場所と言えます。避難先として選んだ土地が、結果的に彼にとっての大切な再出発の場所になりました。
すっかり「地域の人」になっていった
吉川英治について、個人的に一番素敵だなと思うのはここなんです。彼は「有名人」として青梅に住んでいたのではなく、すっかり「地域の人」になっていました。
たとえば、こんな心温まるエピソードが残っています。
- 吉野村の公民館建設に多額の寄付をした
- 中学校の卒業生ひとりひとりに、俳句をしたためた短冊を贈った
- 樹齢500〜600年ともいわれる椎の木の下で野点(のだて)を楽しんだ
卒業生全員に手書きの短冊を贈るなんて、とても粋ですよね。これは有名作家の社会貢献というより、近所の優しい物書きのおじさんがやることのように思えます。
昭和35年に文化勲章を受章。昭和37年に亡くなった際、青梅市は彼に2人目の名誉市民の称号を贈りました(1人目は後述する川合玉堂です)。
草思堂は、養蚕農家でもある

この旧宅は現在、青梅市吉川英治記念館として公開されています。主屋・洋館・長屋門・土蔵の4棟が「旧吉川英治邸(草思堂)」として国の登録有形文化財に指定されているんですよ。
ここで、少し寄り道をさせてください。
この建物は「文豪の家」であると同時に、「梅郷の養蚕農家」でもあります。かつての青梅は、青梅縞や青梅夜具地で知られた織物の町でした。つまり吉川英治が買ったのは、青梅の産業が建てた家だったんです。
文学の話をしていたはずが、いつのまにか産業史の話に繋がっていく。青梅を歩いていると、こんなワクワクする発見がよくあります。

川合玉堂|帰る家が、なくなっていた
日本画家である川合玉堂が最初に青梅を訪れたのは、疎開よりずっと前——明治31(1898)年、彼が25歳のときでした。
余談ですが、青梅線が青梅から日向和田まで延びたのも、同じ明治31年3月のこと。偶然かもしれませんが、若き日の玉堂は開通したばかりの線路に乗って、この地へ来たのかもしれません。第1回で書いた「遊びに来た人たち」の一人だったわけですね。
疎開、そして自宅の焼失
それから46年後の昭和19年7月、玉堂は御岳へ疎開してきます。同年12月には古里村白丸(現・奥多摩町)へ移りました。
そして昭和20年5月。牛込若宮町(現在の新宿区若宮町)にあった玉堂の自宅が、空襲で焼失してしまいます。
帰る家がなくなってしまった玉堂は同年12月、御岳へ戻ります。そして自宅「偶庵(ぐあん)」とアトリエ「随軒(ずいけん)」を建て、昭和32年に84歳で亡くなるまで、この地に住み続けました。
「疎開」が「定住」に変わった理由として、これほどはっきりしたものはありません。彼には帰る場所がなかったのです。
ただし、それだけではないはずです
しかし、「家が焼失した」というだけの理由なら、玉堂は戦後に新宿に家を建て直すこともできたはずです。彼はすでに昭和15年に文化勲章を受けたほどの大家でしたので、新宿に限らず、東京のどこでも受け入れられたでしょう。
それでも、玉堂は御岳を離れず青梅の風景を描いて、ここで暮らすことを選びました。
第1波の文人たちにとって、御岳渓谷はたまに「見に来る場所」でした。しかし玉堂にとっては、毎日そこにあって自分を刺激してくれる画題になった。同じ渓谷が、まったく別の意味を持ちはじめたわけです。
昭和30年、青梅市は玉堂に最初の名誉市民の称号を贈っています。
没後4年の昭和36(1961)年、御岳渓谷を望む美しい場所に玉堂美術館が開館しました。設計は数寄屋建築の名手である吉田五十八、枯山水の庭は造園家・中島健の作です。
朝倉文夫|1年で帰った人、20年後に戻った作品
3人目の朝倉文夫は、先の2人とは少し違う道をたどります。
「東洋のロダン」と呼ばれた彫刻家の彼は、昭和20年3月から翌21年まで、平溝(現・二俣尾5丁目)の高源寺などに家族とともに疎開していました。
そして、彼は東京へ帰りました。 玉堂や英治とは違い、青梅に定住はしていません。滞在はおよそ1年ほどでした。
それでも、縁は切れなかった
ただ、朝倉文夫と青梅の縁はそこで終わりませんでした。
御岳渓谷の楓橋のすぐ上流、川に突き出た巌の上に、「青年の像」というブロンズ像が立っているのをご存知ですか?高さ2メートルほどの、裸の青年の立像です。
作者は、朝倉文夫。設置されたのは昭和39(1964)年11月。朝倉が亡くなったあと、遺族から青梅市へ寄贈されたものです。
疎開して1年で帰った人の作品が、20年後、その土地に戻ってきました。住み続けることだけが「縁」ではないのだと思います。1年間だけ見つめた渓谷の風景が、遺族の記憶にも大切に残っていたということなのでしょうね。
交わっていた証拠|玉堂から英治へ、4通の手紙
さて、ここまで「同じ時期に近くに住んでいた」というお話をしてきました。
でも、それだけならただの偶然ですよね。彼らは実際に交流していたのでしょうか?
実は、それを裏付ける素敵な証拠が残っているんです。
青梅市吉川英治記念館が2021年春に開催した企画展「吉川英治の書簡展 〜交友関係を垣間見る〜」の出品目録には、草思堂に届いた手紙の差出人がずらりと並んでいました。
- 作家・文化人から:菊池寛、横光利一、石坂洋次郎、石川達三、大岡昇平、阿川弘之、椋鳩十、岡潔(数学者)、坂本九
- 画家から:横山大観、竹内栖鳳、東山魁夷、前田青邨、安田靫彦、杉本健吉、そして川合玉堂(4通)!
- 英治が出した手紙:谷崎潤一郎、三島由紀夫、室生犀星、佐佐木茂索
さらに同記念館は、2023年秋に「吉川英治と川合玉堂 -その作品と交流ー」という展示を開き、両者の合作や書簡を紹介しています。
青梅にいた文豪と、青梅にいた画伯が、青梅の地で手紙を交わしていた。
しかも合作まで残っているなんて、なんだかワクワクしませんか?これが「戦時下の青梅に文化のサロンがあった」ことの、いちばん確かな証拠だと思います。
なぜ、帰らなかったのか
改めて、今回のテーマに戻ってみましょう。
3人のうち、朝倉文夫は1年で帰りました。一方、玉堂と英治は青梅に残りました。この差はどこにあったのでしょうか。
玉堂の場合は、はっきりしています。帰る家が焼けてしまったからです。 そのうえで、この土地の風景を描いて生きることを彼自身が選びました。
英治の場合は、少し違うように見えます。 彼には東京へ帰る選択肢もあったはずです。それでも9年5か月をここで過ごし、公民館に寄付をし、卒業生に短冊を配りました。彼は避難先の「お客さん」ではなく、その土地の「住人」になっていったのだと思います。
そして2人とも、青梅市の名誉市民として深く愛される存在になりました。
「疎開」という言葉は、本来なら一時避難を意味します。でも、一時避難のつもりで訪れた場所が、そのまま人生の後半を過ごす大切な場所になることもある。 これは、戦争という異常事態が生んだ、少し不思議で温かいご縁なのかもしれません。
ひとつ確かなのは、この人たちが青梅に残らなければ、玉堂美術館も、吉川英治記念館も、青年の像も、今の青梅にはなかったということです。
いま、訪ねられる場所
3人の足跡は、今も歩いて巡ることができますよ!
| スポット | 内容 | 最寄り駅 |
|---|---|---|
| 青梅市吉川英治記念館 | 草思堂。主屋・洋館・長屋門・土蔵が国登録有形文化財 | 日向和田駅など |
| 玉堂美術館 | 昭和36年開館。設計=吉田五十八、庭=中島健 | 御嶽駅 徒歩5分 |
| 青年の像 | 朝倉文夫作。昭和39年11月設置 | 楓橋のすぐ上流 |
| 高源寺 | 朝倉文夫が疎開した曹洞宗寺院 | 二俣尾駅 |
玉堂美術館と青年の像は、御岳渓谷の遊歩道沿いにあります。 歩いて両方回れる距離なので、お散歩にぴったりです。
第1回で紹介した北原白秋の歌碑(澤乃井園)も同じ遊歩道沿いにあるので、第1波と第2波の足跡を、1本の道でつなげて歩くことができるんです。
おわりに
第1波の人たちは、青梅を見に来ました。
第2波の人たちは、青梅に疎開し、そのまま住みました。
そして、時代は進み次の波がやって来ます。
昭和40年代以降、逃げるためでもなく、遊ぶためでもなく、「ここで作品をつくりたいから」という理由で青梅を選ぶ人たちが現れます。陶芸家の藤本能道や、洋画家の小島善太郎などです。
吉川英治が去った20年後、同じ梅郷に、今度は焼き物の窯が築かれることになります。
そのお話は、また次回に。
「この人も青梅にいたよ!」「祖父からこんな話を聞いたことがある」といった情報がありましたら、ぜひお問い合わせフォームからお寄せください。このシリーズは、皆さまからの情報と一緒に育てていきたいと思っています📖
最後までお読みいただき、ありがとうございました!次回もどうぞお楽しみに🌿
参考・出典




