【若山牧水と青梅】牧水は青梅に来ていたのか?|『別離』に残る「武蔵の青梅」の一首をたどる

こんにちは!baigo.fun(バイゴーファン)です。
「幾山河越えさり行かば寂しさの終てなむ国ぞ今日も旅ゆく」——旅の歌人として知られる若山牧水。
その牧水が、青梅にも足を運んでいたことをご存じでしょうか?
先にこのページの結論をお伝えします。
①青梅を詠んだ歌は、確実に存在します。
歌集『別離』に「武蔵の青梅」と地名を明記した一首があります。
②「御嶽にて」と詞書のある三首も、武州の御嶽である可能性が高いと考えられます。
ただしこちらは断定できる資料がないため、周辺の歌の並びからの推測になります。
ここからは、牧水が青梅を訪れたと考える根拠を一つずつたどっていきます📖
『別離』に残された、青梅の歌

牧水の歌集『別離』は、明治43(1910)年に東雲堂書店から刊行されました。二十歳頃からの歌一千首を収めた、牧水の代表歌集です。
その上巻に、「旅ゆきてうたへる歌をつぎにまとめたり、思ひ出にたよりよかれとて」という断り書きとともに、旅の歌をまとめた一群があります。
「三首御嶽にて」——霧の歌
まずご紹介するのは、「三首御嶽にて」という詞書とともに並ぶ三首です。
戸をくれば朝寝の人の黒かみに霧ながれよる松なかの家 (三首御嶽にて)
霧ふるや細目にあけし障子よりほの白き秋の世の見ゆるかな
霧白ししとしと落つる竹の葉の露ひねもすや月となりにけり

三首とも霧を詠んでいます。
戸を開けると、まだ眠っている人の黒髪に霧が流れ寄ってくる。障子を細めに開けて外をうかがう。竹の葉から露がしとしと落ちる——。
御岳山は霧の名所として知られています。宿に泊まった朝の情景でしょうか。
「武蔵の青梅」——地名が明記された一首
そして、先ほどの御嶽の三首のすぐあとに、この歌が続きます。
野の坂の春の木立の葉がくれに古き宿見ゆ武蔵の青梅
この歌では「武蔵の青梅」と地名がはっきりと詠み込まれています。
「青梅」は「あおうめ」とも読めますが、直前に「武蔵の」が付いていることを考えると、「むさしのおうめ」と読むほうがおさまりが良さそうです。
野の坂道を歩いていくと、春の木立の葉がくれに古い宿が見えてくる。
宿場町であった「青梅宿(おうめじゅく)」を詠んだ歌と考えて、まず間違いないでしょう。
考察①:この「御嶽」は、武州の御嶽か

東京都青梅市にも「御嶽」がありますが、木曽(長野県)の「御嶽」もまた有名です。
旅を愛した牧水は、木曽の御嶽にも足を運んでいます。そのため「三首御嶽にて」の御嶽が、青梅市の御嶽なのか、長野の御嶽なのかという疑問が残ります。
その答えの手がかりは、前後に並ぶ歌にありました。
山の雨しばしば軒の椎の樹にふりきてながき夜の灯かな(百草山にて)
立川の駅の古茶屋さくら樹の紅葉のかげに見おくりし子よ
旅人は伏目にすぐる町はづれ白壁ぞひに咲く芙蓉かな(日野にて)
百草山は現在の日野市。そして立川、日野と続き、その先に御嶽、青梅が並んでいます。
これらはすべて多摩の地名です。
木曽の御嶽であれば、周囲には信州の歌が並ぶはずですが、そうはなっていません。
確定とまでは言えないものの、「三首御嶽にて」と詠まれた歌は、青梅市の御嶽と考えてまず間違いないだろうと思います。
考察②:秋と春、二度の旅だったのかもしれません
牧水の青梅旅行は一度きりだったのでしょうか。それとも何度か足を運んだのでしょうか。
その答えを彼の歌から明らかにしていきましょう。
御嶽の三首は秋の歌です(霧、秋の世)。ところが青梅の一首は春の歌(春の木立)です。
さらに青梅の歌のあとには、こんな二首が続きます。
なつかしき春の山かな山すそをわれは旅びと君おもひ行く
思ひあまり宿の戸押せば和やかに春の山見ゆうち泣かるかな
春の山を眺め、宿に泊まっている。
ここで、牧水自身の言葉が手がかりになります。
牧水は『別離』の自序で「歌の掲載の順序は歌の出来た時の順序に従うた」と書いていますが、この旅の歌の一群については「旅ゆきてうたへる歌をつぎにまとめたり」と断っています。
つまり旅の歌は、時系列ではなく土地ごとにまとめられているのです。
そう考えると、秋に御嶽を訪れ、春には青梅に宿をとった——別々の旅だった可能性が見えてきます。
一度きりではなく、牧水は青梅の地を何度か歩いていたのかもしれません。
牧水は、どうやって青梅へ来たのか
ここからは牧水が辿ったであろう旅程を考えていきます。
ここで重要になるのが、当時の鉄道の状況です。
マイカーなどほとんどない時代。文人のみならず、多くの旅行客は鉄道を使って青梅の地を訪れていました。
当時の終着駅は「日向和田」だった
これまで紹介してきた歌が収められた『別離』上巻は、明治37(1904)年4月から同41(1908)年3月までの歌を収めた巻です。つまり牧水が訪れたのは、この時期ということになります。
では、その頃の鉄道、現在のJR青梅線はどこまで通じていたのでしょうか。
| 年 | できごと |
|---|---|
| 明治27(1894)年11月 | 青梅鉄道 立川〜青梅 開業 |
| 明治31(1898)年3月 | 青梅〜日向和田 旅客営業開始 |
| 大正9(1920)年1月 | 日向和田〜二俣尾 開業 |
| 昭和4(1929)年9月 | 二俣尾〜御嶽 開業 |
| 昭和10(1935)年1月 | 御岳登山鉄道のケーブルカー 営業開始 |

牧水が青梅を訪れた時、鉄道の終着駅は日向和田でした。
二俣尾の開業は大正9(1920)年、御嶽駅にいたっては昭和4(1929)年。牧水が歩いた頃には、まだ影も形もありません。もちろんケーブルカーもありません。
つまり牧水は、日向和田駅で電車を降り、そこから先を歩いたことになります。
考えられる2つのルート
日向和田から御岳山へ向かうとして、道筋は大きく二通り考えられます。
① 多摩川沿いに、滝本まで歩く
御岳山は古くから「参る山」でした。武蔵御嶽神社への表参道は、滝本から山を登るルートです。参詣者は多摩川沿いの道(現在の吉野街道にあたる道筋)を歩いて滝本へ向かいました。
牧水も、この参詣路をたどった可能性があります。
② 吉野梅郷から尾根へ取り付く
もうひとつ、日向和田駅のすぐ近くに御岳山への登山口があります。
吉野梅郷から山に入り、三室山、梅野木峠、日の出山を経て御岳山へ至るルート。これは現在も使われている縦走コースで、今でも日向和田駅で降りて御岳山を目指す登山者がいます1。
牧水は旅と山を愛した人です。線路の終点で降り、目の前の尾根に取り付いた——そう考えるのも、それほど無理な想像ではないように思います。
いずれにせよ確かなのは、牧水の時代は歩く旅だったということです。
白秋より15年以上早い
参考までに、歌人の北原白秋が青梅を訪れたのは大正12(1923)年3月のこと。牧水より15年以上あとです。
そしてその頃の終着駅は、二俣尾まで延びていました。
線路の終点が奥へ延びるにつれて、文人たちの「歩き始める地点」も奥へ移っていった。牧水と白秋の15年の差は、そのまま日向和田と二俣尾の距離の差でもあります。
いま、牧水の道を歩けるか
現在でも、牧水が旅行したであろうコースを歩くことができます。
日向和田駅は今も青梅線の駅としてありますし、吉野梅郷の登山口もそのままです。
三室山から日の出山へ抜けて御岳山に至るコースは、登山地図にも載っています。
ただし、それなりに歩きごたえのある縦走路です。牧水がここを歩いたのだとすれば、なかなかの健脚だったことになります。
「そこまでは……」という方は、無理せずJR御嶽駅で下車し、バスとケーブルカーを使いながら御嶽神社を参拝してはいかがでしょうか?
まとめ
「若山牧水は青梅に来たのか」という問いに、現時点で言えることを整理します。
- 青梅を詠んだ歌は確実に存在する(「武蔵の青梅」と明記)
- 「御嶽にて」の三首も、武州の御嶽である可能性が高い(周辺の歌がすべて多摩の地名)
- 時期は明治37〜41年(『別離』上巻の収録範囲)
- 当時の終着駅は日向和田。そこから歩いたことになる
- 秋と春、二度以上訪れていた可能性もある
歌碑があるわけでも、記念館があるわけでもありません。それでも、100年以上前にこの地を歩いた歌人が、確かに青梅の風景を歌に残していました。
日向和田駅に降り立ったら、少しだけ思い出していただけたら嬉しいです。
なお、この記事は公開されている資料をもとにした調査です。「牧水の青梅訪問について、こんな資料がある」「地元にこんな言い伝えがある」といった情報をお持ちの方は、ぜひお問い合わせフォームからお寄せください。追記・訂正していきたいと思っています📝
お読みいただきありがとうございました!
参考・出典
- 若山牧水『別離』上巻(明治43年/東雲堂書店) ※本文は現代短歌PD文庫『別離』(底本:国立国会図書館デジタルコレクション『牧水全集 第一巻』改造社、昭和4年)を参照
- 若山牧水|Wikipedia
- 青梅線(沿革・年表)|Wikipedia
- 御岳登山鉄道|Wikipedia
- 日の出山-梅野木峠-日向和田駅 縦走コース|YAMAP
- 日向和田駅|御岳山、日の出山、雷電山の登山口情報|山と溪谷オンライン



