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【近代文学と青梅①】文人たちは、まず山に登りに来た|北原白秋・若山牧水が歩いた青梅

こんにちは!baigo.fun(バイゴーファン)です。

青梅には、近代文学の足跡が驚くほど濃く残っています。それを3回に分けてたどるシリーズの、第1回です。

青梅と近代文学

このシリーズは3つの「波」で構成しています。
①行楽に来た人たち(この記事) / ②疎開して住み着いた人たち(近日公開予定) / ③制作の場に選んだ人たち(近日公開予定)

第1回は、まだ文人たちが誰も住んでいなかった頃の話をしていきます。

明治から大正にかけて、文人たちは青梅に遊びに来ていました。目的はほぼひとつ。御岳山に登ることです🏔️

※このページでは、駅名や神社は『御嶽』、山や地名は『御岳』と表記しています。

目次

青梅を訪れた文人たち

まず、名前がはっきり残っている人たちから。

北原白秋|大正12年3月

北原白秋(画像はWikipediaより)

歌人の北原白秋が青梅を訪れたのは、大正12(1923)年3月のことでした。関東大震災の半年前になります。

一人旅ではなく、歌人の前田夕暮、詩人の大木惇夫らとの旅でした。目的は御岳山への登山です。

そして山を下りた帰り道、沢井の造り酒屋に立ち寄ります。現在の小澤酒造です。
そこで詠まれたのが、長歌「造り酒屋」でした。

西多摩の山の酒屋の鉾杉は 三もと五もと青き鉾杉

これは長歌に添えられた反歌の一部で、現在は澤乃井園の敷地に歌碑として立っています。建立は昭和42(1967)年3月。訪問から44年後のことでした。

若山牧水|白秋より15年以上早く、御嶽へ

若山牧水(画像はWikipediaより)

旅を愛し、その土地土地の風景を歌った若山牧水も、御嶽を訪れていました。

歌集『別離』(明治43(1910)年刊)の上巻に、旅の歌をまとめた一群があります。そのなかに「三首御嶽にて」という詞書とともに、次の三首が並んでいます。

戸をくれば朝寝の人の黒かみに霧ながれよる松なかの家
霧ふるや細目にあけし障子よりほの白き秋の世の見ゆるかな
霧白ししとしと落つる竹の葉の露ひねもすや月となりにけり

御岳山は霧の名所と呼ばれるだけあって、牧水も霧の情景を歌にしています。障子を細めに開けて外をうかがう——宿坊に泊まった朝の景色なのでしょうか。

そして、この三首のすぐあとに、こんな一首が続きます。

野の坂の春の木立の葉がくれに古き宿見ゆ武蔵の青梅

「青梅」は「あおうめ」とも読めますが、直前に「武蔵の」が付いていることを考えると、「むさしのおうめ」と読むほうがおさまりが良さそうです。
牧水は御岳山に登り、青梅で宿泊したこともあるかもしれませんね。

中里介山|『大菩薩峠』の舞台として

中里介山
中里介山(画像はWikipediaより)

隣の羽村に生まれた中里介山は、大正2(1913)年9月から『都新聞』で『大菩薩峠』の連載を始めます。以後28年、41巻という日本文学史上まれな長さの大長編になりました。

主人公・机竜之助の旅は甲州の大菩薩峠から始まり、多摩川を下って武州沢井村、御岳山、青梅宿へと展開していきます。

介山は住んだわけでも観光に来たわけでもありませんが、青梅を「書いた」人です。当時の読者にとって、青梅は小説で読む土地でもありました。

どうやって来たのか?|鉄道が文人を運んだ

現在は電車や車で気軽に旅行に来られるようになった青梅市ですが、明治や大正の時代に、文人たちはどのように遊びに来ていたのでしょうか?

文人が青梅に来られるようになったのは、鉄道が開通したからです。

できごと
明治27(1894)年11月青梅鉄道 立川〜青梅 開業。当時は軌間762mmの軽便鉄道
明治31(1898)年3月青梅〜日向和田 旅客営業開始
大正9(1920)年1月日向和田〜二俣尾 開業
昭和4(1929)年9月二俣尾〜御嶽 開業
昭和10(1935)年1月御岳登山鉄道のケーブルカー 営業開始

白秋は、どこを歩いたのか

先ほどの表を見ると、あることに気づきます。
白秋が来た大正12年、終着駅はまだ「二俣尾」でした。
御嶽駅は6年後、ケーブルカーにいたっては12年後の開業です。

つまり白秋たちの行程は、以下のようなものだったと推測されます。

推測される白秋の旅程
  1. 立川から青梅鉄道に乗り、終点の二俣尾駅で下車
  2. そこから多摩川沿いに、沢井を通って歩く
  3. 御岳山の登山口である滝本
  4. ケーブルカーはないので、山道を歩いて登る(標高差およそ420m)

現在であれば、「御嶽に行くのであれば、沢井にもよってお酒を飲もうかな」という観光客は少なくありません。しかし、白秋が御嶽を訪れた時代には、沢井の酒蔵は寄り道ではなかったのです。

二俣尾から御岳山へ向かう道すがら、必然的に沢井を通る。山を登って下りてきて、疲れた体で酒蔵の前を通りかかる。そこで一杯いただいて、歌が生まれた——。

そう考えると、あの歌碑が沢井にあることの意味が変わってきます。

📌 行程の細部までが記録に残っているわけではないので、ここは当時の鉄道の状況からの推測です。ただ、「終着駅が二俣尾だった」「ケーブルカーがまだなかった」という2点は確かなので、歩く旅だったことは間違いありません。

牧水は、さらに遠くから歩いていた

日向和田駅

では、若山牧水はどのようなルートで御嶽を目指したのでしょうか?

先ほどの歌が収められた『別離』上巻は、明治37(1904)年4月から同41(1908)年3月までの歌を収めた巻です。つまり牧水が御嶽を訪れたのは、白秋より15年以上も前ということになります。

では、その頃の終着駅はどこだったか。
もう一度表を確認すると、それは日向和田だったことがわかります。

二俣尾の開業は大正9年。牧水が歩いた頃には、まだ影も形もありません。
つまり牧水は、日向和田から御岳山まで歩いたことになります。白秋の二俣尾より、さらに手前です。二俣尾からでも相当な道のりですが、それより数キロ先から歩き始めていたと考えられます。

線路の終点が奥へ延びるにつれて、文人たちの「歩き始める地点」も奥へ移っていった。牧水と白秋の15年の差は、そのまま日向和田と二俣尾の距離の差でもあります。

訪れた場所は、どんなところだったのか

では、彼らが目指した場所を見ていきます。

御岳山|「参る山」としてのインフラがあった

宿坊・丸山荘
宿坊・丸山荘

そもそも、なぜ文人たちは御岳山を目指したのでしょうか?

答えは、山上に泊まれる場所があったからです。

御岳山の山上には、武蔵御嶽神社を守る御師(おし)集落があります。御師とは、参拝者の案内や宿泊の世話をし、各地に「講」という信仰の組織をつくって人を送り込んでいた人たちのこと。

そして驚くべきことに、この集落は今も30世帯以上が暮らしています。 宿坊は現在も20軒ほどのこっており、宿泊施設として現在も利用可能です。
江戸時代からの御師と講の関係が現役で機能している場所は、全国で御岳山だけともいわれます。

近代の文人にとって、御岳山は「未開の秘境」ではありませんでした。何百年も人が泊まりに来ている、完成された行楽地だったのです。だからこそ、鉄道が近くまで通った瞬間に、東京の文化人が押し寄せた。

牧水が詠んだ「戸をくれば朝寝の人の黒かみに霧ながれよる松なかの家」も、こうした宿坊のひとつでの朝だったのかもしれません。

標高は929m。山頂に武蔵御嶽神社が鎮座し、山上には集落と宿坊、参道の商店が並びます。山の上に町があるという、他ではあまり見ない構造です。

御岳渓谷|歩く旅の道そのもの

御岳渓谷

いまでこそ御岳渓谷は「遊歩道を散策する場所」ですが、当時は登山口へ向かうための道でした。

多摩川の上流部が岩を削ってつくった渓谷で、清流は「名水百選」に選ばれています。青梅駅の西からおよそ4kmにわたって続き、現在は御嶽駅から沢井駅まで歩いて30分ほどの遊歩道が整備されています。

白秋たちが歩いたのはこの川沿いです。同じ川、同じ岩を見ながら歩いたと思うと、少し不思議な気持ちになります。

なお、渓谷沿いに歌碑や美術館が集まったのは戦後のこと。白秋が歩いた大正12年には、何もありませんでした。

沢井の酒蔵|元禄15年から続く

清流ガーデン澤乃井園
清流ガーデン澤乃井園

歌が生まれた小澤酒造は、元禄15(1702)年創業と伝えられる蔵元です。銘柄は「澤乃井」。

蔵の目の前を多摩川が流れ、背後は山。白秋が見たのも、おおむねこの風景だったはずです。

現在は「清流ガーデン澤乃井園」として開かれていて、白秋の歌碑もこの敷地内にあります。碑面の文字は歌集『篁』初版の活字を拡大したもので、碑の設計には白秋と同郷(筑後)の後輩にあたる詩人・野田宇太郎が関わりました。

歌を詠んだ場所と、その歌の碑が、同じ敷地に立っている。これはなかなか贅沢な状況だと思います。

いま、白秋の道を歩けるか

沢井と御嶽をつなぐ遊歩道
沢井と御嶽をつなぐ遊歩道

白秋が歩いた道を現在も歩くことができます。しかも、より気軽に旅行を楽しむことが可能です。
御嶽駅まで電車で行けますし(大正12年にはなかった駅です)、滝本駅からはケーブルカーで6分。白秋が数時間かけて登った標高差を、あっという間に詰められます。

おすすめの順路はこちらです。

モデルコース
  1. JR沢井駅で下車
  2. 小澤酒造・澤乃井園で白秋の歌碑を見る
  3. JR御嶽駅方面へ徒歩30分
  4. 余力があれば御嶽駅へ戻り、バスで滝本へ。ケーブルカーで御岳山上へ

歌碑を見てから御岳山に登ると、「この人はここを歩いて登ったのか」という実感が湧きます。

御岳渓谷の遊歩道はほぼ平坦で、歩きやすい道です。ただし川沿いなので、滑りにくい靴をおすすめします。

おわりに

第1波の文人たちは、青梅に住んでいません。登って、詠んで、帰っていきました。

でもこの時期があったからこそ、「青梅は文化人が行く土地だ」という認識が東京の文壇に生まれました。そしてそれが、次の波につながっていきます。

昭和19(1944)年。戦火を逃れて、今度は住むためにやってくる人たちが現れます。吉川英治、川合玉堂、朝倉文夫——。

その話は、次回に。

「この文人も青梅に来ていた」「祖父から聞いた話がある」といった情報がありましたら、ぜひお問い合わせフォームからお寄せください。このシリーズは、皆さまの情報で育てていきたいと思っています📖

お読みいただきありがとうございました!


参考・出典

お読みいただきありがとうございました!
青梅市のWeb制作事務所・SSAITS -サイツ- のロゴ

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