【青梅の文化人③】「つくる場所」に選ばれた町|人間国宝・藤本能道と美術の土壌を育てた小島善太郎


こんにちは!baigo.fun(バイゴーファン)です。
青梅と近代の文化人をたどるシリーズも、いよいよ最終回を迎えました。
このシリーズは3つの「波」で構成しています。
①行楽に来た人たち / ②疎開して住み着いた人たち/ ③つくる場所に選んだ人たち(この記事)
第1波の文人たちは、御岳山に登って美しい景色を楽しんだあと、自分たちの街へ帰っていきました。
第2波の吉川英治や川合玉堂は、戦火を逃れて青梅に住み着きました。ただ、そのきっかけは「戦争」という、彼ら自身が望んで選んだわけではない切実な事情でした。
では、今回の第3波は何が違うのでしょうか?
彼らは逃げてきたのではなく、自らの意志で青梅を「選んで」やって来た。ここが決定的に違う面白いポイントなんです🏺
藤本能道|昭和48年、梅郷に窯を築く
藤本能道(ふじもと よしみち)さん。色絵磁器の人間国宝であり、東京藝術大学の学長も務められた、日本を代表する陶芸家です。
この方が青梅市梅郷に窯を築いたのが、昭和48(1973)年のことでした。
どんな方だったのでしょうか?
大正8(1919)年生まれの藤本さんは、文部省の工芸技術講習所で富本憲吉さん、加藤土師萌さんという2人の巨匠から学びます。
そして独自に確立されたのが「釉描加彩(ゆうびょうかさい)」という見事な技法。この功績により、昭和61(1986)年に重要無形文化財「色絵磁器」の保持者、いわゆる人間国宝に認定されました。平成4(1992)年、73歳でこの世を去られています。
なぜ、「梅郷」だったのか
ここで少し、前回の記事を思い出してみてください。
梅郷といえば、あの吉川英治が9年5か月ものあいだ過ごした場所ですよね。
英治が青梅を離れたのが昭和28年。その20年後、同じ梅郷に、今度は焼き物の窯が築かれたというわけです。なんだか不思議なご縁を感じませんか?
藤本さんの素晴らしい作品は、青梅市立美術館の常設展示室で観ることができます。(ただし、後述のとおり現在は休館中ですのでご注意くださいね)
小島善太郎|住まなかった人が、土壌をつくった
もう一人、青梅の美術を語るうえで絶対に欠かせないお名前があります。洋画家の小島善太郎(1892-1984)さんです。
1930年協会や独立美術協会——日本の洋画史に残る重要な団体の、いずれも設立会員に名を連ねた素晴らしい画家。フランス留学を経て、昭和の洋画・前衛美術運動の中心となった方です。
ただし、青梅には住んでいません
小島善太郎さんは、青梅に住んでいたわけではありません。
明治25年に東京・新宿で生まれ、昭和7(1932)年からは八王子に移り住み、晩年は日野で過ごされました。日野のアトリエ「百草画荘」は、現在も小島善太郎記念館として公開されています。
では、住んでもいない彼の名前が、なぜ青梅市立美術館の併設美術館に冠されているのでしょうか?
その答えは、青梅で絵を教えていたからなんです。
小島善太郎さんは地元の青梅美術協会の絵画指導に、長年にわたって携わってこられました。そしてその熱心な活動が、青梅市立美術館設立の大きなきっかけのひとつになったのです。
これは、第3波のもうひとつの形です
青梅に住み着いたわけではない。自分自身の作品をつくりに来たわけでもない。
彼は、この町で絵を描く人たちを「育てた」人でした。
第3波を「つくる場所として青梅を選んだ人たち」と括ってきましたが、小島善太郎さんのことを調べていて、それだけでは足りないと気がつきました。
外からやって来て作品をつくる人がいるだけでは、その地に文化は根づきません。その町に住む人が、自らつくり始める必要があるのです。小島善太郎さんがやってくれたのは、まさにその「土壌づくり」でした。
藤本能道さんが「選んで来た人」なら、小島善太郎さんは「選ばれる土壌をつくってくれた人」。この2人の巨匠が並んで青梅で展示されているのは、考えてみればとても筋が通っていて素敵なことですよね。
【お知らせ】青梅市立美術館・青梅市立小島善太郎美術館について
現在、空調等設備の改修工事のため休館中です。
休館期間は令和6(2024)年2月5日から令和9(2027)年3月頃まで(予定)。併設の喫茶室もお休みです。再開時期は変更になる可能性がありますので、お出かけ前に公式情報をご確認くださいね。
3つの波を、並べてみる
シリーズの締めくくりとして、3つの波を整理してみましょう。
| 波 | 時期 | 青梅は何だったか |
|---|---|---|
| 第1波 | 明治末〜昭和初期 | 行く場所。御岳山に登り、渓谷を歩き、帰っていった |
| 第2波 | 昭和19〜20年代 | 逃げ込む場所。そして、住み続ける場所になった |
| 第3波 | 昭和40年代〜現在 | つくる場所。選んで来る人と、ここで生まれる人 |
こうして並べてみると、青梅という土地と人との関係が、時代とともにだんだんと深くなっていくのが見えてきませんか?
訪れる → 住む → つくる。
そして最後の「つくる」段階に入ってからが、実はいちばん長いんです。藤本能道さんが窯を開いた昭和48年から数えて、もう50年以上も続いています。
おわりに
このシリーズを書きながら、ずっと考えていたことがあります。
文豪や巨匠の名前が並ぶと、どうしても「昔の青梅はすごかったね」という懐古的な話になりがちです。でも、調べれば調べるほど、決して過去の話ではないなと思うようになりました。
北原白秋が歩いた道は、いまも私たちが歩けます。吉川英治の家は残り、藤本能道の窯があった梅郷では、いまも人々が暮らしています。そして2025年に、新しい民話の本屋が開きました。
青梅の文化の土壌は、まだ終わっていません。
3回にわたる少しマニアックなシリーズに最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました!
このシリーズは、公開されている情報で確認できた範囲でまとめたものです。きっと、まだ分かっていないことのほうが多いと思っています。「うちにこんな古い資料があるよ」「祖父からこんな話を聞いたことがある」といった情報がありましたら、ぜひお問い合わせフォームから気軽にお寄せくださいね📖
そして何より——いま青梅で何かをつくっていらっしゃる方。ぜひ教えてください! 第3波の続きの物語を、これからもたくさん書いていきたいと思っています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました🌿
参考・出典


