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【青梅の歴史】『家康、江戸を建てる』で描かれた江戸城の白壁と、「成木石灰」の真実

【青梅の歴史】『家康、江戸を建てる』で描かれた江戸城の白壁と、「成木石灰」の真実
【再植樹10周年】梅の公園に美しい春が帰ってきました

植物ウイルス防除のため、梅の木が姿を消した梅の公園。
「もう一度、この景色が見たい」その一心で、全伐採の悲劇を乗り越えました。
「再植樹10周年」を記念し、地元商店会が記録し続けた貴重な写真とともに、復興の歩みを振り返ります。

\ 今年の春は、ぜひその目で確かめてください /

門井慶喜さんの歴史小説『家康、江戸を建てる』
本作は、徳川家康が豊臣秀吉に国替えを命じられ、江戸の町に移り住んで国づくりに邁進する姿を描いた物語です。
戦国時代の物語といえば勇猛な武将の戦いが注目されがちですが、この本は泥臭く都市開発に挑んだ文官や技術者たちにスポットライトを当てた群像劇となっています。

今回は、この小説の最終話に登場する「青梅市成木(なりき)」の石灰採掘の歴史と、江戸城普請のロマンについてご紹介します。

目次

問題山積だった「江戸」の町づくり

現在でこそアジア屈指の世界都市となった東京(江戸)ですが、家康が秀吉から国替えを命じられた天正18年(1590年)当時は、そんな未来の姿など到底想像もできない未開の土地でした。

当時の江戸城のすぐ下(現在の日比谷周辺)までは海(日比谷入江)が入り込み、あたり一帯は水分が多くてぬかるんだ広大な湿地帯でした。かといって西に目を向ければ、武蔵野台地のどこまでも続くススキ野原が広がっているだけ。
おまけに利根川などの河川は氾濫を繰り返し、大規模な建築材料の調達もままならない……。

そんな途方もない苦難を、知恵と技術で乗り越えて作り上げられたのが「江戸」という町なのです。

家康がこだわった「真っ白な天守閣」

漆喰の材料「石灰」が足りない!

『家康、江戸を建てる』の最終話は「天守を起こす」。つまり、江戸城に天守閣を建てるというエピソードです。
「実戦において天守閣は意味がないのではないか」と進言する後継者の秀忠に対し、家康は天守閣の建造、しかも「漆喰(しっくい)塗りの真っ白な天守閣」に強くこだわります。

しかし、当時の関東には関西ほど豊かな物資がありません。
白壁を作るための漆喰の主原料である「石灰(せっかい)」も、手に入りにくい建築材料の一つでした。家康の理想とする真っ白な天守閣を作るためには、この石灰を大量に調達しなければならなかったのです。

巨大プロジェクトを統括した大工頭・中井正清

江戸城普請の中心人物として描かれるのが、大工頭の中井正清です。
『家康、江戸を建てる』でも語られているとおり、当時の大工頭は、現在私たちが想像する現場の「大工の棟梁」というよりは、「巨大ゼネコンの社長」という表現の方が実態に近い存在でした。

家康が「江戸に城を建てたい」と言えば、図面を引き、全国から職人を手配し、莫大な材料を調達する……。この国家規模の建築プロジェクトを統括するのが、正清の務めだったのです。

石灰の産地「成木」の発見と飛躍

史実から見る「御用石灰」誕生の歴史

小説の中では、山師の一人が正清に「石灰は八王子にある」という情報を持ち込み、実際に正清が足を運んで青梅の成木に大量の石灰石を発見することになっています。

実際の史実(一般的な伝承)では、成木の石灰が江戸城の「御用石灰」になるまでには、以下のような歴史的背景がありました。

北条家の遺臣たちの話し合い
北条家家臣・野村家に石灰の製造法が伝わっていたとされる

もともと成木地区では、戦国時代に北条氏照の家臣であった佐藤助十郎らが、八王子城落城後にこの地に住み着いて石灰焼きを始めたと伝えられています。

代官・大久保長安の目に留まり、御用石灰になる様子
大久保長安の目に留まったというのが通説

その後、江戸時代に入った慶長11年(1606年)、江戸城の大改修で白亜の漆喰壁にするため、多摩地方を治めていた八王子代官・大久保長安が成木地区の石灰に目を付け、供出を命じました。
こうして成木の石灰は幕府公認の「御用石灰(八王子白土焼)」に指定され、この大量の石灰を江戸へと運搬するために整備された道が「成木往還」、のちの「青梅街道」となったのです。

『家康、江戸を建てる』における現実的な見立て

史実において大久保長安が目を付けたとはいえ、当時の成木の石灰製造は規模も小さく、細々と営まれているに過ぎませんでした。
そのままでは、江戸城という巨大プロジェクトの需要を到底満たすことはできません。では、どのようにして大量生産を可能にしたのでしょうか?

門井慶喜さんは物語の中で、その歴史の空白を非常に現実的な見立てで埋めています。

いずれにしても、成木の地は、石灰の零細(れいさい)な産地にすぎなかった。
が、正清が江戸へかえり、
「それ行けっ。あそこは天下の霊峰じゃ。わが国の普請の歴史が変わるぞうっ」
派手な文句とともに技術者をどっと派遣すると、現地の百姓が、
――こりゃあ、無尽蔵(むじんぞう)だべ。
目をむくほどの石灰石がつぎつぎと採掘されたのだった。最新技術のなせるわざだった。零細産地は、たちまち日本一の採石場となった。
(『家康、江戸を建てる』祥伝社文庫、428頁)

つまり、大工頭である正清が江戸から大量の「技術者」を成木に送り込み、最新技術を導入した結果、またたく間に日本一の採石場へと変貌を遂げたというストーリーです。

活況を呈す成木の採石場
江戸から人が派遣されてことにより、石灰の大量生産ができたのでは

大量生産のための設備も人材もない村に、いくら「需要があるから作れ」と命じても製造が軌道に乗るはずがありません。
当時の詳細な史料は残っていませんが、中井正清や代官・大久保長安のような江戸(幕府)の人間が、資金と技術者を直接投入して生産体制を強力に支援したと考えるのが、極めて自然で現実的な見方と言えるでしょう。

家康が「白の天守閣」にこめた想いとは……?

成木をはじめとする多摩の地から大量の石灰が送られ、ついに白塗りの巨大な天守閣は完成します。
しかし、なぜ家康はこれほどまでに「白の天守閣」にこだわったのでしょうか。

秀忠が諫言したように、戦国期の実戦において天守閣は有用性に乏しいものでした。また、権力を誇示するためであれば、秀吉の大阪城のような威圧的な黒い壁にすればよかったはずです。なぜ、あえて白塗りにしたのか。

その家康の真意、そして江戸という町に込めた壮大な願いの答えは、ぜひ『家康、江戸を建てる』の結末を読んで確かめてみてください。
歴史とロマンが交差する、青梅の地がもっと好きになる一冊です。

家康、江戸を建てる (祥伝社文庫)
【再植樹10周年】梅の公園に美しい春が帰ってきました

植物ウイルス防除のため、梅の木が姿を消した梅の公園。
「もう一度、この景色が見たい」その一心で、全伐採の悲劇を乗り越えました。
「再植樹10周年」を記念し、地元商店会が記録し続けた貴重な写真とともに、復興の歩みを振り返ります。

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