【青梅の歴史】青梅街道はどうやってできた?江戸城を白く塗った「石灰」と「成木往還」の歴史ロマン

東京の西端である青梅市と、新宿などの都心部を結ぶ大動脈「青梅街道」。
現在でも「旧青梅街道」「新青梅街道」として交通の要所となっていますが、この長い道がいつ、どんな目的で作られたのかご存知ですか?
今回は、郷土史『青梅街道 ―江戸繁栄をささえた道―』の記述を中心に、青梅街道の誕生秘話と、別名「成木往還(なりきおうかん)」と呼ばれる理由を、歴史のロマンとともに振り返っていきます1。
平将門の伝説が残る「かや野原」だった青梅

「東京の田舎だよ」と自虐することは多いものの、青梅は河辺駅を中心に大型商業施設があり、観光地でもあるので人通りが多く、活気があります。しかし、大昔はどのような場所だったのでしょうか。
平安時代中期(940年ごろ)、平将門(たいらのまさかど)が活躍した時代、青梅を含む武蔵国(むさしのくに)の多くは「かや野原」と呼ばれる、草がぼうぼうに生い茂る未開の地でした。
青梅の地名は、平将門が馬のムチに使った梅の枝を地面に刺し、「私の願いが叶うなら根を張れ」と誓ったところ、本当に根付き、その実がいつまでも青かったという伝説に由来しています。
こうした伝説が残るのも、当時の青梅が中央政府の目が届きにくい、神秘的で自然深い場所だったからかもしれません。
そんな青梅の状況が大きく変わるのは、それからずっと後、戦国時代の終わり頃からです。
戦国時代の終わりと、石灰づくりの始まり
わずか20年の北条氏支配がもたらしたもの
青梅の地を長く治めていたのは三田(みた)氏という一族でした(現在でも吉野梅郷では、三田氏をしのぶお祭りが開かれています)。
しかし戦国時代後期、三田氏は小田原を拠点とする北条(ほうじょう)氏に滅ぼされてしまいます。
ところが、その北条氏も豊臣秀吉の「小田原征伐(1590年)」によって滅亡します。北条氏が青梅を支配したのはわずか20年足らずでした。
しかし、この「ほんの短い期間の北条氏の支配」が、のちに青梅街道を生み出すきっかけになります。
「お城の壁を強くしたい!」若者たちの会議

豊臣秀吉の軍勢により、北条方の松山城(現在の埼玉県東松山市)が落城。この戦いで、青梅の成木(なりき)郷に住んでいた佐藤氏・木崎氏・野村氏の親たちも討ち死にしてしまいました。
親を失った若者たちは集まり、「なぜ自分たちの城は負けたのか」を話し合います。
その会議の中で、野村庄七郎がこのように述べたと伝えられています。
長雨のうえ大風が吹き、城塀の土がくずれ落ち、寄手の敵に城内を見透され、三方から攻められた。壁に用いた赤土は雨に弱い。風雨に強い壁土はどこかにないものか。八王子城の壁は風雨にこわれぬ堅土でつくりたいものだ(『青梅街道』10~11頁)
つまり、壁がボロボロで、城内の様子が丸わかりだったことが最大の敗因だったと野村は分析しています。
青梅を含め、現在の多摩地方の最重要拠点は八王子城だったので、この八王子城の壁は強固にできないものかと思案していたようです。
秘密の製法「月氏堊焼法(げっしあくやきほう)」
「お城の壁を強くしたい」という野村に対し、佐藤助十郎が提案をします。
わが家の祖先は結城家(下野国の豪族)で、家臣の一人から城を塗る廓土を造る伝習を受け、私も親から口伝されている。それは堊石を焼くもので、幸いこの地にはその石があり、焼木もたくさんある。一度焼いてみたいと思うが(『青梅街道』11頁)
そういって『月氏堊焼法(げっしあくやきほう)』という書物を披露したと伝わっています。
堊石(あくいし)というのは聞きなれないですが、これこそが青梅の山から採れる「石灰石(せっかいせき)」のことでした。
石灰は現代、身近なものでは乾燥剤や消毒につかう白い粉というイメージがありますが、戦国時代では重要な建築資材でした。
白くて強い壁「漆喰(しっくい)」を作る

時代劇などで見る、お城の真っ白な壁。あれは石灰から作られる「漆喰(しっくい)」です2。漆喰は火や水に強く、お城を守るには最高の材料でした。
今日でも、日本的であたたかな白い壁を表現するために、あえて漆喰塗にするお家やお店もありますね。
「八王子城の壁を漆喰にして強くしよう!」
野村・佐藤・木崎たちの会議の結論はこういうことになります。
漆喰には「消石灰」が必要です。石灰石を、生石灰にし、さらに消石灰にするという大変な作業ですが3、結城家から伝わる『月氏堊焼法』を使えば製造できるのでは。
さっそく彼らは消石灰の製造に着手します。
しかし、「八王子城の壁を漆喰にしよう」という野村たちの計画は実現を見ないまま、八王子城、そして小田原城は落城します。
八王子城からは漆喰が発見され、これは佐藤らが製造したものではないかとも言われていますが、実際のところはわかっていません。
徳川家康の天下と「青梅街道」の誕生
江戸城を白く塗るための「御用石灰」へ

主君である北条氏が滅んだ後も、佐藤たちは成木の山奥に残り、農業の傍らで細々と石灰づくりを続けていました。
時代は変わり、関ヶ原の戦いを経て徳川家康が天下をとります。
江戸幕府が開かれ、江戸城の大改修が始まると、大量の「白い漆喰」が必要になりました。
そこで白羽の矢が立ったのが、青梅の成木です。
多摩地方を治めていた有能な代官・大久保長安(おおくぼながやす)は、成木で良質な石灰が作られていることを聞きつけ、佐藤たちに江戸城用の石灰づくりを命じます。
こうして1606年、成木の石灰は幕府公認の「御用石灰」に指定され、「八王子白土焼(はちおうじしろつちやき)」と命名されました。
石灰を運ぶ道「成木往還」=「青梅街道」

さて、ここで大きな問題が発生します。
かや野原や山林だった青梅から、大都会・江戸まで、重い石灰を大量にどうやって運ぶのでしょうか?
江戸城の工事のために、人や馬、荷車が通れるように草を刈り、木を切り倒し、山奥の成木から江戸まで道が整備されました。
「成木(石灰の産地)から江戸へ行き来する道」だから、「成木往還(なりきおうかん)」。
これが、現在の「青梅街道」の成り立ちなのです!
北条氏の支配という、青梅の歴史から見ればほんの短い出来事が、秘密の石灰づくりの技術をもたらし、それが巡り巡って江戸城を白く彩り、東京を横断する大動脈を生み出した……。
とてもワクワクする歴史のロマンですね。
石灰は、その後も青梅の歴史を動かす
佐藤たちが始めた成木の石灰づくりは、江戸時代後期になると他の産地に押され、徐々に衰退していきました。
しかし、「青梅から石灰が採れる」という事実は、その後も青梅の歴史を大きく動かします。
明治・大正時代になると、再びこの石灰石を運ぶために「青梅鉄道(現在のJR青梅線)」が敷かれることになるのです。
この青梅線と石灰の関わりについては、また別の記事で詳しくご紹介したいと思います。お楽しみに!
- 山本和加子『青梅街道 ―江戸繁栄をささえた道―』聚海書林、1984年。以下、『青梅街道』と略記。 ↩︎
- https://www.kochi-sekkai.jp/daub ↩︎
- https://www.inoue-calcium.co.jp/calcium/summary.html ↩︎

