【青梅大祭のルーツ】江戸の「天下祭」と平将門。青梅の山車に秘められた意外な歴史を紐解く

毎年5月2日・3日に開催され、青梅の街が一年で最も熱気に包まれる一大イベント「青梅大祭」。
町中を練り歩く豪華絢爛な山車(だし)と、鳴り響くお囃子の競演は圧巻ですよね。
実は、この青梅大祭のルーツをたどっていくと、あの歴史上の大人物「平将門」に行き着くことをご存知でしょうか?
今回は、青梅大祭と将門を結ぶ、時を超えた数奇な歴史のロマンをご紹介します!
青梅大祭の山車のルーツは江戸の「天下祭」
青梅大祭で曳き回されている歴史ある山車の多くは、もともと江戸(東京)の「天下祭(てんかまつり)」で使用されていたものです。
天下祭とは、江戸時代に幕府公認で行われていた神田明神(神田神社)などの祭礼のこと。
江戸の町を巨大な山車が練り歩く、すこぶる華美で盛大なお祭りでした。しかし、明治時代以降、路面電車の開通や電線の敷設によって背の高い山車が曳けなくなってしまいます。
そこで、青梅の財力ある商人たちがこれらの山車を譲り受け、青梅の地で大切に受け継いできたのです。
では、その「天下祭」の舞台である神田明神では、一体誰を祀っていたのでしょうか?
それこそが、平将門なのです。
神田明神と平将門の深いつながり
神田明神はもともと、中世の江戸郷芝崎村(現在の千代田区大手町付近)で祀られていました。
平安時代末期に進出してきた武士の「江戸氏」は、自らの先祖が将門の神前で祈願した縁などから、将門の祭礼を盛んに行うようになります。強大な力を持つ将門を祀ることで、領民の心をまとめ、在地支配を確立しようとしたのです。
その後、徳川家康が江戸に入国し、江戸城の拡張に伴って神田明神は現在の外神田へと移転します。そして、幕府の厚い保護を受け、その祭礼は「天下祭」へと発展していきました。
なぜ幕府は「朝敵・将門」の祭りを保護したのか?
朝廷に反逆した「朝敵」であるはずの将門を祀る神社を、なぜ徳川幕府は江戸総鎮守として手厚く保護し、天下祭を奨励したのでしょうか?それには、以下のようないくつかの大きな理由がありました。
- 徳川家康の戦勝祈願: 家康が関ヶ原の戦いに臨む際、神田明神で戦勝を祈願して勝利を収めた日が、ちょうど祭礼の日(9月15日)でした。以来、戦勝をもたらす縁起の良い神様として尊崇されるようになりました。
- 強大な怨霊の鎮魂と都市の守護: 幕府は、非業の死を遂げた将門の祟りを恐れました。しかし、逆に手厚く祀り上げ、盛大な天下祭を保証することで、強力な「江戸の守護神」へと転換させようとしたのです。
- 悪疫流行に対する民衆の不安解消: 当時の人々は、江戸で流行する伝染病を将門の祟りと結びつけました。盛大なお祭りを行って将門の霊を慰めることは、民衆の不安を和らげ、江戸の町の安寧を保つという幕府の重要な支配政策でもありました。
江戸の熱気は、いま青梅の地で生きている
武士の在地支配の象徴から始まり、徳川幕府の怨霊鎮魂と都市守護の要として、江戸最大のお祭りへと発展した天下祭。
そこで将門の霊を慰め、江戸の人々を熱狂させていた山車たちは、今も青梅の街で大切に保存され、年に一度の青梅大祭で華やかな姿を見せてくれています。
つまり、将門を祀る天下祭の熱気は、形を変えて現在の青梅に生き続けていると言えるのです。
「青梅には将門誓いの梅など、将門伝説が多いな」と思っていた方も多いかもしれませんが、お祭りの山車という意外なところでも、青梅と平将門は深く結びついていました。
次に青梅大祭へ行く際は、ぜひ山車の彫刻や佇まいを見上げながら、「この山車はかつて、将門様のお膝元で江戸の人々を熱狂させていたんだな」と、歴史のロマンに思いを馳せてみてくださいね!
参考文献
- 樋口州男『将門伝説の歴史』吉川弘文館、2015年

青梅大祭の魅力は、まだまだ語り尽くせません!
12台の豪華な山車の見どころから、江戸の天下祭にルーツを持つ深い歴史、そして当日の交通規制や公共交通機関でのアクセス方法まで、これさえ読めば青梅大祭のすべてがわかります。
\ お出かけ前の予習に! /

