【青梅と吉川英治】文豪の甘党伝説を追う!『忘れ残りの記』に見る「蜜パン」の原風景と母の思い出

こんにちは!baigo.fun(バイゴーファン)です。
先日、青梅市吉川英治記念館で先行配布された新作スイーツ「文豪の蜜パン」をご紹介しました。

執筆に疲れると、パンに船橋屋の黒蜜をかけて食べていたという吉川英治。
実は、記念館で配られていた船橋屋さんのパンフレットを読むと、とても興味深いことが書かれていました。
吉川英治の随筆「舌のすさび」(食の随筆誌『あまカラ』第105号・昭和35年発行)によると、この「パンに黒蜜」という食べ方は、子どもの頃によく食べた「蜜パン」の思い出の味なのだそう。
晩年、青梅の草思堂(そうしどう)で執筆していた頃の習慣は、少年時代の記憶とつながっていたんですね。
「それなら、若き日のことを書いた自伝には、どんな『甘いもの』の思い出が書かれているんだろう?」
気になって調べてみたところ、文豪の意外な素顔が見えてきました📖
自伝『忘れ残りの記』に描かれた甘い記憶

今回紐解いてみたのは、昭和30〜31年に『文藝春秋』で連載された吉川英治の四半自叙伝『忘れ残りの記』です。
横浜で過ごした少年時代から、上京して苦学を重ねた二十代前半までが描かれています。家の没落など苦労の多い時代が綴られているのですが、その中で「甘いもの」は、ささやかな光として登場します。
アンパンをふところに入れて
横浜で過ごした幼少期。家が傾いていく中、少年だった吉川英治はちょっとしたいたずらをします。
こっそり持ち出した20銭銀貨を握りしめ、友人の「アブ公」と一緒に伊勢佐木町の汁粉屋に入ったり、南京豆やアンパンをふところに入れて食べ歩きをしたのだとか。
パンと甘いものの組み合わせ……まさに「蜜パン」に通じる原風景ですよね。子どもらしい小さな冒険の思い出です。
働く少年と、軍艦の酒保
少し成長し、横須賀の小間物店(続木商店の支店)で働き始めた頃のエピソードにも甘いものが登場します。
お使いで軍艦「新高」の酒保(日用品などの売店)に行くと、そこには甘い物が豊富にあり、行くといろいろな物をもらうことができたそうです。
厳しい労働の中で、甘いお菓子は少年にとってどれほど嬉しく、心躍るものだったでしょうか🛳️
苦学時代の「キナ粉をまぶした蜜団子」
私が一番「おっ!」と思ったのが、上京後のエピソードです。
下谷西町の髪結いの家の二階に間借りして仕事をしていた時期。階下の主人が売っていた「キナ粉をまぶした蜜団子」を取り寄せては、番茶を飲むことにしていました、と書かれています。
きな粉と蜜。……これって、のちに彼がこよなく愛した船橋屋の「くず餅(きな粉+黒蜜)」の組み合わせそのものですよね!
苦しい下宿時代に味わった蜜団子の記憶が、大人になってからの好みに繋がっているのかもしれないなと、想像が膨らみます。
深夜の甘い物と母の愛
東京で自立し、少し夜遊びを覚えた頃。
深夜に帰宅すると、お母様が起きてきてお茶を入れたり、戸外へ出て甘い物を買ってきてくれたりしたそうです。
親に心配をかけながらも、甘いものを通して親子の情が交わされる、とても温かくて少し切ない場面です。
甘いものは、人生の「ささやかな慰め」だった
実は『忘れ残りの記』の中には、「私は甘党である」という明確な言葉や、「黒蜜が好きだ」という直接的な表現は出てきません。
けれど、お汁粉、アンパン、蜜団子、そしてお母様が買ってくれた甘いもの。
生涯を通じて、甘いものが「慰め」や「ささやかな贅沢」として、彼のそばにあったことがよくわかります。
ご長男の英明氏も、「お酒が強くない分、甘いものが好きで、とりわけ船橋屋のくず餅を好んだ」と証言されています。
少年時代の蜜パン、苦学時代の蜜団子、そして晩年、青梅の草思堂で執筆の合間に食べた黒蜜がけのパン。
『忘れ残りの記』の断片的な記憶と、ご長男の証言を重ね合わせてみると、文豪の人生を一本の甘い線が貫いているようで、なんだか面白くありませんか?☺️
おわりに
吉川英治が『新・平家物語』の執筆を始めた青梅市の草思堂。現在は「青梅市吉川英治記念館」として公開されています。
今回発売された「文豪の蜜パン」を味わったあとは、ぜひこの『忘れ残りの記』を片手に、彼が歩いた庭や書斎を眺めてみてください。
偉大な文豪が、ちょっと身近で親しみやすいおじいちゃんのように感じられるかもしれません🌿
お読みいただきありがとうございました!
参考・出典
- 吉川英治『忘れ残りの記 ――四半自叙伝――』
- 吉川英治「舌のすさび」(食の随筆誌『あまカラ』第105号・昭和35年5月発行)
- 船橋屋「文豪の蜜パン」商品パンフレット
- 青梅市吉川英治記念館|おうめ観光ガイド

