家内制手工業から機械化へ|明治42年、力織機導入が変えた青梅の織物業

これまでの記事では、江戸時代に「青梅縞」「青梅棧留」として全国区のブランドに成長した青梅の織物文化をご紹介してきました。今回は舞台を明治時代に移し、青梅の織物業がどのように近代化・機械化していったのかを見ていきます。
高機の普及で、生産能率が大きく向上

江戸時代の終わり、慶応4年・明治元年(1868年)頃、青梅の織物業では、それまでの織機に代わって「高機(たかはた)」と呼ばれる織機が本格的に普及していきます。従来の織機で1反しか織れなかったところを、高機では一度に4〜6反分の織り込みができるようになり、生産能率が大きく向上しました。
この高機の普及は、青梅の織物業がまだ「家内制手工業」の枠組みの中にありながらも、着実に生産力を高めていった時期といえます。
「織元」の登場と、流通の仕組みの変化

明治5年(1872年)になると、青梅の織物業に「織元(おりもと)」と呼ばれる存在が生まれます。織元は農家に材料を貸し、織り上がった製品を回収するという仕組みで生産を管理する立場でした。これにともなって新たに「買継商(かいつぎしょう)」が生まれ、それまであった「座」という古い流通の形態は自然と姿を消していきました。
この時期には、双子縞・紅梅縞・格子模様など、後の「青梅夜具地」の原型となる織物が生産されるようになっていたことも記録されています。着物の生地から布団の生地へと転換していく、その素地がすでにこの明治初期に生まれていたのです。
子どもも担い手だった、明治期の機織り家庭

当時の織物業は、多くが家庭内での手作業によって支えられていました。青梅市郷土博物館の資料によれば、明治期には7〜8歳の子どもが高機の準備を手伝い、14歳頃から実際に機織りを始め、16〜17歳頃には一人前として扱われるようになっていたとされています。子どもたちは学校が終わると、高機の作業に足踏みしながら参加し、糸を繰る道具を組み立てたり、仕事着に着替えて手伝ったりしていたそうです。
家族総出で機を織る——そんな暮らしの延長線上に、青梅の織物産業は支えられていたことがうかがえます。
明治20年、38年——組合づくりが進んだ時代
明治20年(1887年)には、郡織物組合が結成されます。そして明治38年(1905年)には青梅織物同業組合が新たに設立され、これを機に、それまでの着物の生地(着尺)から、布団の生地(夜具)へと生産の軸足を本格的に移していくことになります。
なお、日本国内における動力織機(力織機)の実用化自体は、明治20年(1887年)以降、東京・大阪・京都といった大都市の紡績会社を中心に始まっていました。政府の「殖産興業」政策とも結びつきながら、外貨獲得のための輸出産業として急速に発展していった一方で、資本力の小さな地方の織元では、高価な輸入動力織機の導入は容易ではなく、依然として手織りが主流であり続けました。
明治42年、青梅にもついに力織機が
そうした中、明治42年(1909年)、青梅にもついに力織機が導入されます。導入したのは、二俣尾の谷合直太郎氏でした。これにより、青梅の織物業も生産性の向上を図ることができるようになりました。
ただし、当時の全国的な統計を見ると、青梅を含む埼玉・所沢周辺などの綿織物地帯は、遠州・知多・泉南といった他の主要産地に比べて、力織機の導入時期も普及の速度も緩やかであったことが指摘されています。青梅の機械化は、決して全国最先端というわけではなく、家内制手工業の伝統を残しながら、時間をかけて少しずつ進んでいったプロセスだったといえそうです。
まとめ|手仕事の伝統の上に築かれた近代化
高機の普及、織元・買継商という流通の仕組みの整備、そして力織機の導入——青梅の織物業の近代化は、決して一足飛びに起きたわけではありませんでした。家族総出で機を織っていた家内制手工業の時代から、少しずつ、着実に段階を踏んで進んでいった歩みだったのです。
そしてこの明治38年の「着尺から夜具への転換」という出来事こそが、後に「青梅夜具地」として全国にその名を知られることになる、大きな転換点でした。次回は、この「なぜ着物の産地が布団の産地になったのか」という謎に、いよいよ迫っていきたいと思います。
参考文献・出典
- 岡本拓也・小山政史編『青梅の織物~糸が紡ぐ今と昔~』青梅市郷土博物館、2019年
- 向貞江・森本みさ子・栗原広昭・金子静江編『青梅織物 青梅縞から青梅夜具地へ』青梅夜具地夕日色の会、2013年
- 地域文化商社うなぎの寝床「織のあるネイティブスケープ【2】動力織機の発明と繊維産地の多様性」 https://unagino-nedoko.net/archives/42404/
- ジェトロ・アジア経済研究所「研究テーマ別に論文を読む-『日本の経験』を伝える」 https://d-arch.ide.go.jp/je_archive/society/book_unu_jpe8_d02.html

