青梅市はその名に「梅」の字が入っているように、古くから梅との関係が深い土地です。特に吉野梅郷にある「青梅市梅の公園」は観梅の名所として知られ、2009年(平成21年)2月には日本経済新聞が企画した「何でもランキング(観梅部門)」において、水戸偕楽園(茨城県)や熱海梅園(静岡県)といった江戸時代からの名所を抑え、全国第1位に選出されました1。
かつて日本一の栄冠に輝き、その後ウイルスの悲劇を乗り越えて再生の道を歩む「吉野梅郷」。
今回は、この地がいかにして「梅の里」となったのか、その歴史を紐解いていきます。
「青梅」の地名の由来とは?梅との不思議な関係
「青梅(おうめ)」という地名を聞くと、古来よりこの地には梅が群生していた……と思われがちです。
しかし、実は「オーメ」という呼び名のルーツを辿ると、必ずしも植物の「梅」ありきではなかったようです。
なぜ「オーメ」と呼ばれ、そして「青梅」という名前が付けられたかは諸説ありますが、『青梅郷土史』ではいくつかの説を統合して、下記のようにまとめています2。
- 氏族の移住:
「大目(オホメ)」という氏族がこの地域に移り住み、そこから「オホメ」と呼ばれるようになった。 - 平将門の梅:
平安時代の武将・平将門が金剛寺(青梅市天ヶ瀬町)を訪れた際、馬の鞭に使っていた梅の枝を地面に刺し、「願いが叶うなら栄えよ」と祈願しました。
すると梅は根付きましたが、秋になっても実は熟さず青いままだったといいます。そこから、「オホメ」と呼ばれるこの地を「青梅」と改めた。
つまり、地名としての「青梅」は、もともと広大な梅林があったから付いた名前というよりは、歴史的な伝承や一族の名前に由来している可能性が高いようです。
江戸の食卓を支えた「梅の一大産地」へ
名前の由来はともあれ、この土地の気候風土は梅の栽培に適していました。
時代が進むにつれ、青梅の土地は実用的な「梅の一大産地」へと変貌していきます。
その中心地となったのが、現在の梅の公園がある梅郷エリア、当時の「下村(しもむら)」でした。
江戸時代後期に書かれた地誌『武蔵名勝図絵』には、梅がこの地の名産であることが記されており、年間100駄(だ)もの梅の実が江戸へ送られたとあります。
1駄は約135kgですので、計算するとなんと約13.5トン!トラックのない時代に、これだけの量の梅が江戸の食卓へ出荷されていたとは驚きです3。
補足:当時の「青梅町」と「下村」の関係
ここで少し、当時の地理関係を整理しておきましょう。
梅の生産中心地であった「下村」は、江戸時代にはまだ「青梅」の一部ではありませんでした。
- 戦前の青梅町: 現在の青梅駅周辺(本町、仲町など)を中心としたエリア。織物産業などで栄えていました。
- 下村(後の吉野村): 多摩川の南側、現在の梅郷エリア。農業や林業が盛んでした。
『青梅郷土誌』によれば、昭和14年の「青梅町」における果実生産額2,659円のうち、2,000円余りが梅の実によるものであったとされています(195頁、197頁)4。
つまり、当時の青梅町エリアでも梅は作られていました。しかし、それ以上に多摩川を挟んだ対岸の「下村(吉野村)」こそが、圧倒的な梅の生産拠点でした。
農産物から「観光資源」へ ~吉野村の挑戦~
単なる農産物だった梅が、「見て楽しむ観光資源」へと変わるきっかけを作ったのは、明治時代に誕生した「吉野村」でした。
1889年(明治22年)、明治政府の市制町村制によって、畑中村・日影和田村・下村・柚木村の4村が統合され、「吉野村」が誕生します5。

この「吉野」という村名の名付け親は、弱冠30歳にして初代村長に選ばれた川上郡三です。
彼はもともと下村の戸長を務めていた頃から、「この地を奈良県の吉野山のような桜の名所にしたい」という熱い想いを持っており、新村名を「吉野村」としました。
川上村長は桜の植樹を進め観光地化を目指しましたが、日清・日露戦争の影響で多くの桜が材木や燃料として伐採されてしまうという苦難に見舞われます。
しかし、吉野村の人々は諦めませんでした。1910年(明治43年、鈴木隆之助村長の時代)、観光事業として現在の吉野街道沿いなどに約1,000本の梅の木を植樹しました6。
「桜がだめなら、この地特産の梅がある」
そう思ったのかもしれません。
もともと農家が持っていた実用的な梅林に加え、観光用に整備された梅並木が加わったことで、吉野村は関東有数の観梅スポットへと成長します。
その努力は実を結び、1919年(大正8年)には「吉野梅林」が東京府の名勝に指定され、1936年(昭和11年)には東京府の代表観光地にも選出されるほどになりました。
「青梅市梅の公園」の誕生と日本一の栄冠
時は流れ1955年(昭和30年)、吉野村は青梅市と合併し、現在の「青梅市梅郷」となります。
1967年(昭和42年)、青梅市長に就任した石川要三氏は「緑と水と空気を大切にする市政」を掲げ、市民の憩いの場を作るために公園整備に着手しました。 この事業の一環として、1972年(昭和47年)に山の斜面を利用して作られたのが「青梅市梅の公園」です7。
造園にあたっては約120品種、1,500本以上の梅が植えられました。山の斜面を埋め尽くす紅白の梅は「一目千本」ならぬ「一目万本」とも称され、2009年(平成21年)には日本経済新聞のランキングで全国1位を獲得。名実ともに日本一の梅の里となりました。
喪失、そして再生へ
しかし、「日本一」の称号を得たその年、青梅市を悲劇が襲います。 2009年、国内で初めて「ウメ輪紋ウイルス(プラムポックスウイルス)」の感染が確認されたのです。
人体に影響はないものの、感染力が強く、梅や桃の農業に壊滅的な被害を与えるこのウイルスを根絶するため、国と市は苦渋の決断を下しました。2014年、梅の公園を含む吉野梅郷全域の梅、約3万6,000本の伐採・処分が行われました。

山肌があらわになり、「梅の里」から梅が消えたあの日から数年。 3年間のウイルス不在確認期間を経て、2017年からようやく再植栽が始まりました。
かつてのような「一目万本」の景色を取り戻すには、まだ長い年月がかかります。
しかし、吉野梅郷商店会をはじめとする地元の人々は、若木を一本一本大切に育て、梅まつりを盛り上げ、かつての賑わいを取り戻そうと奮闘しています。
江戸時代からの生産地としての誇り、明治の村長が夢見た観光地への情熱、そして一度失った風景を取り戻そうとする現代の人々の想い。今年の春は、そんな歴史に思いを馳せながら、吉野梅郷を歩いてみてはいかがでしょうか。



