
自然豊かな青梅は、ワンちゃんとのドライブやお出かけにぴったりの街!
「店内同伴OKのカフェ」から「絶景のお散歩コース」まで、青梅市内の愛犬家向けスポットをぎゅっとまとめました。
週末の予定決めに、ぜひご活用ください。
\ ワンちゃんとの青梅観光に必携! /


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毎年5月2日、3日に行われる青梅の春の風物詩「青梅大祭」。
お囃子(はやし)の音色が響き渡り、華やかな山車(だし)が町を練り歩くこのお祭りは、多くの観光客を魅了しています。
実はこの青梅大祭、ただのお祭りではありません。現在では東京(旧江戸エリア)の都心部で見ることができなくなってしまった、江戸時代の絢爛豪華な祭りの姿を今に伝える、奇跡のようなお祭りなのです。
今回は、青梅大祭のルーツである江戸の「天下祭り」の歴史と、青梅へと受け継がれ独自の進化を遂げた山車の歴史ロマンをご紹介します。

現在、東京のお祭りというと「お神輿(みこし)」を思い浮かべる方が多いかもしれませんが、江戸時代のお祭りの主役は、各町内から出される「山車」でした。
中でも、江戸の二大祭りとして名高かったのが、日枝神社の「山王祭り」と神田神社の「神田祭り」です。
これらは江戸城に入って将軍や幕閣要人の上覧を許された特別な祭りで、「天下祭り」と呼ばれていました。
その起源は、元和元年(1615年)に山王祭りが江戸城内へ入ることを許されたことに始まります。
当時は山王祭りが幕府の公式祭礼的な性格を持っていたため、神田祭りのエリアからも山王祭りに山車を出していました。
しかし、町内にとって1年に2回も巨大な祭りを行うことは莫大な出費となります。
そこで天和元年(1681年)、幕府の命によって両祭礼を「隔年で交互に行う」ことが決定されました。
この時をもって、神田祭りも肩を並べる規模となり、江戸二大祭りである「天下祭り」が成立したと言えます。
その後、元禄元年(1688年)には神田祭りも江戸城へ招き入れられるようになりました。
江戸の町を彩った豪華な山車ですが、現在、東京都心の有名なお祭りではほとんど見かけることがありません。
明治時代になり社会の仕組みが変わると、金銭的な理由や電線の架設などにより、背が高く維持費のかかる山車の祭りは急速に衰退してしまいました。
さらに、旧江戸エリアの蔵に残されていた山車のほとんどは、その後の関東大震災や太平洋戦争の空襲によって焼失してしまったのです。
失われてしまったはずの江戸の山車文化。それを救ったのが、青梅の財力でした。
江戸時代、青梅は「青梅縞」などの織物や木材を江戸に供給し、経済的に大変豊かに栄えていました。
明治時代初期になると、江戸とのつながりも深かった青梅の裕福な商人たちが、江戸で使われなくなった山車をこぞって買い取ります。
当時の青梅の祭りでは、山車を牛に曳かせるなど、江戸の祭りのスタイルがそのまま採り入れられていました。

当時の山車は「江戸型鉾山車(えどがたほこだいしゃ)」または「三層高欄鉾台型(さんそうこうらんほこだいがた)」と呼ばれる三層構造で、江戸の山車の完成形ともいえる見事な形状でした。
買い取られた山車には、「原舟月(はら・しゅうげつ)」や「仲秀英(なか・しゅうえい)」といった超一流の名人形師たちが手掛けた立派な山車人形が飾られていました。
実はこの人形たち、山車の下から見上げる観客と視線が合うよう、あえて首や胴がうつむき加減に作られているという緻密な計算が施されています。
また、これらの三層の山車には「小田巻(おだまき)」と呼ばれる昇降装置が付いており、城門をくぐる時や蔵に収める時に、二層目の櫓(やぐら)と三層目の人形がスルスルと一段目に収まるという素晴らしいからくりが備わっていました。これらが奇跡的に焼失を免れ、現在も青梅で見ることができるのです。
江戸のスタイルを色濃く残していた青梅の祭りですが、時代の変化とともに大きな転換期を迎えます。
明治末期、青梅の町中にも近代化の象徴である「電線」が張り巡らされるようになり、背の高い江戸型の鉾山車は運行が難しくなってしまいました。
さらに、明治45年(1912年)の明治天皇崩御に伴う自粛ムードも重なり、大正時代に入ると、青梅の人々は山車の屋根部分を大改修し、現在の主流である背の低い「屋台型」へと生まれ変わらせる決断をします。
山車が低くなったことで、立派な人形たちは山車の上に載ることができなくなりました。
しかし、青梅の人々は大切な文化財である人形を蔵にしまい込んだりはしません。お祭りの日には各町内に特別な「人形場(にんぎょうば)」を設け、そこで人形たちを美しく飾るようになったのです。
一方で、人形が降りたあとの山車の櫓部分は、「囃子方(はやしかた)の控えの楽屋」へと生まれ変わりました。これにより、山車の舞台上で威勢よく演奏される「お囃子」がますます盛んになり、祭りの新たな主役として躍り出たのです。
また、青梅の山車文化の面白いところは、新しい山車を作るだけでなく、古い山車を町から町へ「お下がり」として譲り合い、大切に受け継いできた点にあります。
たとえば、住江町が川越から購入した「猿」の山車は後に千ヶ瀬町へ譲られました。また、仲町の先代の山車は下長淵へ渡り、さらに現在は大柳町へと受け継がれています(大柳町の山車には今でも「仲町」の文字の痕跡が残っています)。
歴史を知った上で実際のお祭りに足を運ぶと、山車を動かす「人」や「作法」にも青梅ならではの粋な文化が息づいていることに気づきます。
青梅大祭で響き渡るお囃子のリズムや、華やかな衣装、そして町角に鎮座する荘厳な江戸の山車人形たち。これらはすべて、江戸時代の町人たちが情熱を注いだ「粋」の結晶であり、青梅の人々が大切に守り抜いてきたタイムカプセルのような存在です。
次の青梅大祭では、ただ賑わいを楽しむだけでなく、「この人形はかつて江戸の町を見下ろしていたのかもしれない」と、少し歴史に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。きっと、お祭りの景色が今までとは違って見えてくるはずです。
この記事は、以下の資料を参考に作成しています。

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baigo.funを運営しているWebサイト制作事務所SSAITS -サイツ- です。
2023年に練馬区から青梅市に移住してきました。
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