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【青梅の歴史】辛垣城の戦いとは?観梅市民まつり「甲冑武者行列」の由来と三田氏の悲劇

観梅市民まつりでの「甲冑武者行列&あゝ辛垣城(からかいじょう)の戦」
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青梅市の「吉野梅郷梅まつり」のハイライトは、なんといっても観梅市民まつりです。
その日は日向和田駅から梅の公園に続く神代橋通りが歩行者天国となり、多くの屋台が並び、さまざまな催しが会場を盛り上げます。

その中で、毎年行われる「甲冑武者行列&あゝ辛垣城(からかいじょう)の戦」という催し。神代橋通りを、雄々しい甲冑武者たちが行進する様子は圧巻です。

しかし、このイベントのタイトルにある「辛垣城の戦」とは一体何なのでしょうか?
今回は、青梅の歴史を大きく動かした「辛垣城の戦い」について、わかりやすくお話ししていきます。

目次

関東の覇権をめぐる激動:三田氏vs北条氏

領主・上杉家から、新興勢力・北条家へ

対立する上杉家と北条家
対立する上杉家と北条家

辛垣城の戦いとは、戦国時代に青梅周辺を治めていた「三田(みた)氏」と、小田原を本拠地とする「北条(ほうじょう)氏」による激しい合戦のことを指します。

当時、多摩地方は名門「上杉家」が領有しており、三田氏はその家臣として数百年にわたり青梅の土地を治めていました。
しかし、戦国大名の先駆けと言われる北条早雲を開祖とする北条家が勢力を拡大すると、上杉家と対立。ついに北条家は青梅の土地も支配下におさめます。これにより、三田氏も一時的に北条家に従うことになりました。

上杉謙信の小田原攻めに呼応した三田氏

一方、関東を追われた上杉家は北へ向かい、越後(新潟県)の長尾家を頼ります。ここで名門・上杉家を継承したのが、あの戦国時代のスーパースター・上杉謙信です。

上杉家を継いだ謙信は、関東の領地を取り戻すため、1560年に大軍を率いて出陣し、北条氏の本拠・小田原城へ攻め込みました。
この時、一時的に北条家に従っていた旧上杉家の家臣たちの中には、謙信の軍勢に呼応して立ち上がる者がいました。青梅を治める三田氏の当主・三田綱秀(みた つなひで)もその一人で、三田氏は上杉側に加勢します。

上杉軍の撤退と、北条氏照の報復

戦上手として知られる上杉謙信でしたが、難攻不落の小田原城を落とすことはできず、1561年に越後へ撤退してしまいます。

頼みの綱である上杉軍がいなくなり、再び北条家に臣従する武将も多い中、三田綱秀は誇りをかけて北条家と敵対し続けました。
これに対し、北条家当主・氏康は、八王子(滝山城)を拠点とする息子の北条氏照(うじてる)に、三田氏の討伐を命じます。

決戦の舞台は平山城の「勝沼城」から山城「辛垣城」へ

勝沼城は平山城、辛垣城は山城でした
勝沼城は平山城、辛垣城は山城でした

北条軍の侵攻に対し、三田綱秀は決戦の舞台を「辛垣城(からかいじょう)」に定めます。
当時、三田氏の本拠地であった東青梅の「勝沼城(かつぬまじょう)」は小高い丘の上にありましたが、周囲は開けており、北条の大軍を防ぎきるには防衛力に不安がありました。
一方、現在の二俣尾(ふたまたお)、雷電山(らいでんやま)の険しい山頂付近に築かれた辛垣城は、容易には攻め込めない天然の要害です。綱秀はこの辛垣城に立てこもり、北条氏照の軍勢を迎え撃つ決意を固めます。

激闘!辛垣城の戦い

『青梅市史』によると、辛垣城の戦いを伝える史料は少なく、二俣尾の谷合家に伝わる古文書「日記」に記録されているのみのようです。
その記録をもとに、合戦の経過をまとめてみましょう。

谷合家の日記による辛垣城の戦いの経過
  • 永禄年間(1561〜1563年頃):北条氏照の軍勢が三田氏討伐に向けて進軍を開始。
  • 勝沼城からの撤退:平地の勝沼城では防ぎきれないと判断した三田軍は、背後の山城である辛垣城へ兵を移して籠城(ろうじょう)する。
  • 北条軍の猛攻:北条軍が多摩川を渡り、辛垣城の麓に迫る。
  • 三田八十騎の奮戦:「三田八十騎」と呼ばれる精鋭を中心に、三田軍は山の地形を活かして激しく抵抗する。

当時最新の兵器「鉄砲」の備えもあった

この激戦の中で特筆すべきは、三田側に当時まだ非常に珍しかった「鉄砲」が一丁だけあったことです。
記録によると、この鉄砲は伊勢神宮の御師(おし)である竜太夫という人物から三田氏へ献上されたものでした。
三田軍はこの新兵器を駆使して奮戦し、北条方の武将を討ち取ったという記述も残されています。

痛恨の極み…家臣の裏切りによる落城

油を塗った青竹のイメージ
油を塗った青竹で足止め

地の利と新兵器で必死に防戦した三田軍でしたが、最後は味方の裏切りによって悲劇的な結末を迎えます。

郷土の伝承によると、三田軍は辛垣城へ続く急な坂に「油を塗った青竹」を敷き詰め、攻め上ってくる北条軍を滑らせて見事に防いでいました。
しかし、三田氏の家臣であった塚田又八という人物が北条方に内通してしまいます。塚田が陣地へ火を放った(あるいは竹に火を放てばよいと北条側に教えた)ことで城内は大混乱に陥り、ついに辛垣城は落城してしまったと伝えられています。

その後の三田氏と残された謎

辛垣城が落ちた後、当主の三田綱秀は城を脱出し、かつての味方であった岩槻(現在の埼玉県)の太田氏を頼って落ち延びました。しかし、太田氏もすでに北条氏に通じていたため助けは得られず、綱秀は絶望の中で自刃(自害)して果てたとされています。
これにより、鎌倉時代から数百年続いてきた青梅の名族・三田氏は滅亡しました。

現在、二俣尾にある海禅寺(かいぜんじ)には、綱秀の妻や一族の霊を慰める「三田氏供養塔」がひっそりと佇んでおり、市の有形文化財に指定されています。

また、谷合家の「日記」には、落城に際して三田氏の「幼少の子息二人」が地元の者に託され、岩槻へ落ちていったという記述が残されています。しかし、この子どもたちがその後どうなったのかは歴史の波に消え、今も謎のままとなっています。

今なお青梅で愛される三田氏

観梅市民まつりでの「甲冑武者行列&あゝ辛垣城(からかいじょう)の戦」
観梅市民まつりでの催し「甲冑武者行列&あゝ辛垣城(からかいじょう)の戦」

このように、強大な北条家に敗れて滅亡した三田氏ですが、彼らの治世は今も青梅の人々に偲ばれ、観梅市民まつりでは「辛垣城の戦い」として語り継がれています。

全国的な知名度で言えば戦国大名である北条家の方が上ですが、青梅の地にとっては、200年近くこの地を治め、文化を育んだ三田氏の方がずっと縁が深いのです。
「青梅」という地名の由来になった将門誓いの梅がある金剛寺をはじめ、三田氏は市内の多くの寺社仏閣を保護し、地域の発展に貢献しました。

一方の北条家は、青梅の土地を軍事目的や資源調達の拠点として扱った面があり、地元の人々にとっては厳しい支配者として映ったのかもしれません。
しかも、三田氏を滅ぼした北条家自身も、それから約30年後には豊臣秀吉によって滅ぼされてしまいます。支配期間が短かったこともあり、青梅の人々の心に北条家への親しみはあまり定着しなかったのでしょう。

まとめ:甲冑武者行列に込められた郷土への想い

観梅市民まつりで行われる「甲冑武者行列&あゝ辛垣城の戦」は、単なる歴史の再現劇ではありません。
強大な敵に最後まで立ち向かい、青梅の地を守ろうとした名族・三田氏の誇りと悲劇の歴史を、現代に伝えるための大切な行事なのです。

梅の花が咲き誇る神代橋通りで勇壮な武者たちの姿を見かけたら、ぜひ、数百年前の雷電山で郷土のために戦った三田氏の歴史に思いを馳せてみてください。

実は青梅に大きな爪痕を残した北条家

青梅の人々に強い印象を与えなかった北条家ですが、実は北条家の領地になったことが、その後の「青梅街道」の整備に繋がっていくという側面もあります。このお話については別の記事で紹介していますので、そちらもぜひご参照ください。

参考文献

  • 青梅市史編さん委員会 編『青梅市史 下巻』(青梅市発行)
【再植樹10周年】梅の公園に美しい春が帰ってきました

植物ウイルス防除のため、梅の木が姿を消した梅の公園。
「もう一度、この景色が見たい」その一心で、全伐採の悲劇を乗り越えました。
「再植樹10周年」を記念し、地元商店会が記録し続けた貴重な写真とともに、復興の歩みを振り返ります。

\ 今年の春は、ぜひその目で確かめてください /

お読みいただきありがとうございました!
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